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【特別記事】インド・オディア語ラップのパイオニア-Big Dealインタビュー(ダースレイダーとHUNGERが語る日本のヒップホップシーンとの比較から)

2024.05.08

                               文責:軽刈田凡平

BIG DEALと日本のラッパー、ダースレイダー、ハンガーとの出逢い

ムンバイを拠点に活動するラッパーのBig Dealが4月に来日し、辺境ヒップホップ研究会のメンバーでもあるダースレイダー、HUNGERとのレコーディングを行った。
Big Dealはインド東部オディシャ州の言語であるオディア語でラップした最初のラッパーで、これまでに英語とオディア語で多様なテーマの曲をリリースしている。セッションの2日前には、渋谷で行われた国際音楽イベントMusic Bridge Tokyoにて、Darthreider & the Bassonsのライブにゲスト出演し、会場を大いに盛り上げた。
Big Dealについて紹介するには、彼が2017年に発表した“One Kid”という曲を聴いてもらうのが手っ取り早いだろう。
全編を通して英語でラップされているこの曲では、ラッパーになるまでの彼の半生を彼自身の言葉で知ることができる(ミュージックビデオは英語字幕付き)。

日本とインドのハーフのラッパー、BIG DEAL

Big Dealはオディシャ州のプリーという田舎町で、日本人の母とインド人の父との間に生まれた。幼い頃は、典型的なインド人とは異なる見た目を理由にいじめを受けることもあったという。
13歳になると、彼はプリーから1,000キロも北に位置する紅茶で有名な街ダージリンの寄宿舎学校に進学。しかし、そこでもアクセントの違いをからかわれ、またしても周囲との違いに直面させられる。ハイスクール卒業後は、南インドのベンガルールのカレッジへと進学し、そこでラッパーとしての本格的なキャリアをスタートした。
インド東部の小さな町で生まれた彼が、どのようにヒップホップと出会い、ラッパーになったのか。今回のインタビューでは、リリックへのこだわりやヒップホップへの思いも含めて、詳しく語ってもらった(スケジュールの都合上、このインタビューは2回に分けて行なっている)。
Big Dealへのインタビューは、上述のDarthreider & the Bassonsとのステージの前に収録したものだ。ダースレイダーとHUNGERには、日印共演のレコーディングが行われたスタジオにて、Big Dealへのインタビュー内容を踏まえたうえで、彼らの経験と日本のシーンについて語ってもらった(この記事は、その別々に行われた2つのインタビューを織り交ぜて構成している)。
Big Dealのストーリーを中心に、東京と仙台からも光を当てることで、いまやグローバルな文化となったヒップホップの多様性と、そのコアにある本質が浮かび上がってくるはずである。
インド、東京(ダースレイダー)、仙台(HUNGER)。それぞれの土地に根差したラッパーたちは、ヒップホップという文化とどう向き合い、解釈し、実践しているのか。
まずはヒップホップとの出会い、そしてラッパーになったきっかけから聞いてみよう。

3人のヒップホップとの出逢い

軽刈田 ヒップホップを初めて聴いたのはいつ、どこでしたか?

Big Deal ダージリンの全寮制のハイスクールにいたときだね。そこではヒップホップが人気で、Eminemの映画『8Mile』を見て最初にヒップホップと出会った。寮の監督生が自分のサウンドシステムを持っていたから、それ以前にも彼らが流していたヒップホップを聴いたことはあったよ。厳密に言えばそれが最初のヒップホップとの出会いだったけど、その頃の僕はヒップホップをちょっと馬鹿にしていた。でも『8Mile』でEminemのストーリーを見てからは、すぐにEminemとラップのファンになった。

軽刈田 当時、ダージリンにラッパーはいたのでしょうか?

Big Deal たくさんいたよ。ダージリンではネパール語がよく話されているんだけど、近隣のシッキム州やネパールから来たラッパーを含めて、ネパール語のラッパーが結構いたんだ。
あの頃はインド(の中心的地域)にはまだほとんどラッパーはいなかった。

軽刈田 ネパールや、ダージリンを含めたインド北東部は、西洋音楽に関しては、インド全体と比べても発展が早い地域でしたよね。

Big Deal まさにそうだね。西洋文化の影響がとても豊かで、音楽だけでなく、ファッションや食べ物についてもそう言えると思う。エンターテイメントの分野でも欧米の映画がよく見られていたし、食べるもの、着るものなども西洋化していた。

軽刈田 エミネムの音楽を最初に聴いたのはいつ頃でしたか?

Big Deal 2005年か2006年だった。

軽刈田 ダージリンの寄宿舎学校に通う前、生まれ故郷のプリーでは、どんな音楽があなたのまわりにありましたか?

Big Deal プリーに住んでいたときは、ボリウッドの曲をたくさん聴いていた。5、6年生の頃はボリウッド歌手になりたかった。でも声変わりして、歌えなくなってしまったんだけど(笑)。
その頃はボリウッドの影響が大きかったよ。

軽刈田 ダージリンで『8Mile』を見た後、すぐにラッパーになろうと思ったのですか?

Big Deal 映画を見て、すぐにエミネムの曲をラップし始めた。彼の曲を全て聴いて、できるかぎりリリックを覚え、曲に合わせてラップしていた。
それで2007年か2008年には自作の曲を書くようになった。学校はあんまり雰囲気が良くなくて、つまらなくて、子どもっぽい感じだった。その後、2009年にオリジナルの曲を完成させた。そんなに悪くない、けっこういい曲だったと思ってるよ(笑)。

軽刈田 ダースさんとHUNGERさんのヒップホップとの出会いと、ラッパーになったきっかけは?

ダースレイダー 僕とHUNGERは同い年なんだけど、僕はヒップホップはそんなに聴いてなくて、ロックを聴いてました。
最初に聴いたのは友達の影響でCypress Hill, House of PainとBeastie Boysで、初めてお金を出して買ったのはBeastie Boysの「Root Down」というEPだったかな。ロック経由でファンクやブラックミュージックも聴いていて、ファンクの最新系として聴いていたのがDigital Underground。この2つが最初に買ったヒップホップのアルバムでした。
だけどその頃は日本語でラップをやるという発想は全くなかった。17、8歳の頃だったかな。 ラッパーになろうと思ったのは、浪人生の時。予備校の自習室でラップをしている人がいた。「何だこれ」って思ったら、その人に「ラップだよ。知らないの?」って言われて、自分でもやってみようと思ったのがきっかけ。
自分は楽器が弾けないので音楽をやる方法はないと思っていたけど、「ラップだったら音楽できるじゃん」って思ったのが最初かな。

HUNGER 別のインタビューで違うことを言ってるかもしれないけど(笑)、大枠でいうと、ブラックムービーとNBA。音楽はR&B、ニュージャックスウィングからですね。歌の間に入っているラップから、ラップというものを知って、Heavy D & The Boyzとか、だんだんラップがメインの曲に傾いていった。
ダースとかぶっているのがDigital Underground。
でも、初期衝動がDigital Undergroundっていう人はあんまりいないよね。

ダースレイダー 僕はファンクからそっちに行ったから。

HUNGER 俺はそこから2PacとかIce Cubeとか、ウエストコーストのラップを聴くようになった。

日本とインド、楽曲制作のプロセスの違い

ボリウッドなどの映画音楽がポピュラー音楽を支配していた2000年代のインドと、多様な洋楽に触れることができた1990年代の日本。まったく異なる環境で、彼らはヒップホップという同じ文化に惹かれていった。
ところで、ライムを考え、リリックを書き上げても、それをビートに乗せなければ曲にはならない。
それぞれの土地で、彼らはどのように楽曲制作を始めたのだろうか。

軽刈田 リリックを書いたあと、ビートに関してはどうしていたのですか?

Big Deal 当時、僕はビートプロダクションにも所属していて、何人か一緒にやっていたビートメーカーがいた。でも仲違いしてしまったから、結局自分で作ることにした。ダージリンを出てバンガロールに行ってからのことだよ。2007年にはカレッジに行くためにバンガロールに住んでいた。
そこでソフトウェアをインストールして、音楽を作り始めたんだ。ビート制作を一生懸命学んで、最初の曲は自分ひとりで作り上げたよ。

ダースレイダー 僕が最初にラップを練習したのは、Jay-ZがFoxy Brownと一緒にやっていた「Ain’t No Nigga」と、Masta Aceの「Style Wars」のインスト。この2つの曲のアナログ盤でずっと練習してました。

HUNGER シブい(笑)。

ダースレイダー あとはキングギドラの「空からの力」のシングルのインスト。このあたりが最初にラップを書いた時のビートだったけど、そもそもビートの上でラップすることの意味もよく分からなかった。ラップが入ってない曲のバージョンがレコードに入ってたから、「じゃあ、これでラップすればいいんだな」って感覚で。
家で録音するようになって自分のビートがほしいと思ったから先輩が置いていったAKAIのMPC3000っていうのを使って、ビートは最初から自分で作ってましたね。

軽刈田 HUNGERさんは最初からお兄さんの(DJ、プロデューサーの)Mitsu The Beatsさんと一緒に活動していたんですか?

HUNGER 最初からです。ただ、最初は兄貴も曲を作ってなかったんで、(ダースレイダーと)同じようにインストで(ラップをしていた)。
たしかLords of the UndergroundとかKardinal Officialとかのインストを使ってましたね。Mitsuがビートを作るようになったのは97年頃。その時に「誰も日本でこの音楽をやっている人がいない」ってことに気がついて、いろいろ試してみた。最初の録音はMTR(マルチトラックレコーダー)に録ってました。

ダースレイダー 僕はMD(笑)。MDに4トラックの録音ができるやつ。

HUNGER そうそう! 同じかもしれない。
自分の家でヴォーカルを録音できるっていうのがうれしかった。

DJやビートメイキングの違い

    
 レコーディング前にリリックを仕上げるHUNGER、Big Deal、ダースレイダー(左から)

ここで、インドと日本のDJやビートメイキングについて、その違いを述べておきたい。1980年代にヒップホップが輸入されていた日本では、以来アナログレコードによるDJが広く行われていた。
いっぽうインドでは、ヒップホップが広く受容されるには、インターネットが普及し、多くの人が世界中の音楽にアクセスできる環境が整うのを待たなければならなかった。それ以前のインドでは、ボリウッドなどの映画音楽がポピュラー音楽の市場をほぼ独占しており、欧米のサブカルチャー的な音楽はごく限定的にしか流通していなかったためだ。
そのためインドでは、ヒップホップシーンが形成された初期(概ね2010年代)から、DTM(デスクトップミュージック。PCを使用した音楽制作)によるビートメイキングが主流だった。以前カラン・カンチャンが語っていたように、インターネットがヒップホップをはじめとしたインディペンデント音楽シーンの発展の起爆剤となったのだ。
インドにおけるストリートラップのパイオニアの1人であるNaezy(ボリウッド初のヒップホップ映画『ガリーボーイ』の主人公のモデルになったラッパー)は、iPadでダウンロードしたビートに乗せて、iPadに繋いだマイクでデビュー曲を録音し、iPadで撮影したミュージックビデオをYouTubeにアップして話題を集めた。これは、楽器がなくても身近にある音源(つまりヒップホップが誕生した1970年代のニューヨークにおいてはターンテーブルとアナログレコード)を使ってビートを作るというヒップホップの方法論の、スタイルではなく精神を現代的に実践したものだと解釈することもできるだろう。
だが、テクノロジーが音楽の見えない壁を崩しても、ヒップホップというジャンルがすぐにインドに根付いたわけではなかった。

軽刈田 (Big Dealに)ダージリンでラップを始めたのち、最初の曲を書き上げてライブパフォーマンスをしたのはバンガロールだったということですね。

Big Deal バンガロールでパフォーマンスを始めたのはもうちょっと後で、2010年か2011年頃だった。
その頃はノーギャラで、ポケットマネーを使ってライブの機会を作っていたよ。学生だったから、家賃や食費に使うとほとんどお金が残らなかったんだけど、毎週オートリクシャーでバンガロールのいろんなところに行ってパフォーマンスしていた。そうやってパフォーマンスに自信をつけた。

軽刈田 その頃バンガロールでヒップホップのコンサートはよく行われていたのですか?

Big Deal いや、まったくなかった。
その頃はみんなラップを馬鹿にしていたよ。当時バンガロールにはヒップホップのパーティーがはひとつしかなくて、Low Rhydersというバンドが主催していたパーティーがヒップホップのための唯一の場所だった。週末はいつもそこでパフォーマンスして、スキルを磨いたんだ。

軽刈田 バンガロールで長く活動しているラッパーといえば、Brodha VやSmokey the Ghost(いずれもバンガロールを代表するラッパーで、彼らは当時M.W.A.というユニットを結成していた)がいますね。

Big Deal うん。彼らもそこにいたよ。彼らのことはよく知っていて、バンガロールでヒップホップシーンが生まれた2013〜14年頃はよく一緒にライブしていた。2017〜18年くらいまでは苦労の時代だったね。

ここで、彼らにラップと言語との関係を聴いてみたい。
インドでは、多くのラッパーが英語ラップからそのキャリアをスタートさせているが、ヒップホップが一般的な知名度や人気を獲得するには、ヒンディー語などのインドの言語によるラップの登場を待たなければならなかった。
アメリカで生まれ、英語を「母語」とするヒップホップは、どのように各地の言語と混ざり合い、ローカライズされていったのだろうか。

オディア語でラップを始める

軽刈田 あなたは英語でラップをし始めて、その後、故郷の言語であるオディア語でもラップをするようになりましたよね。

Big Deal そう。Eminemのようなグローバルなラッパーの影響を受けていたから、英語でラップを始めて、ずっと英語でラップしていた。
2017年に自分の母語であるオディア語でラップを始めようと思ったんだけど、とても難しかった。それまでに誰もやっていなかったから、どうやっていいか分からなかった。
でもようやく曲を作り上げたら、その曲はとても人気になった。
“Mu Heli Odia”(‘I am Odia’)というタイトルの曲だよ。

軽刈田 あなたはオディア語の最初のラッパーですが、どうやってオディア語のフロウやライム(韻)を作り上げたのですか?

Big Deal とても難しかった。
なぜかというと、日本語もそうだと聞いたことがあるんだけど、オディア語ではあまり韻を踏まないから。
英語やヒンディー語には韻を踏む文化があるから、もっと簡単だと思う。
だから最初の曲を書くのにはかなり長い時間がかかった。何回も書き直してかなり大変だったけど、ようやく仕上げることができたんだ。
何度もやっているから、今ではそこまで苦労しないで書けるようになった。だけど今でも英語でラップするほうが得意だね。英語のほうが、より自分を表現できると思う。

軽刈田 ダースさん、HUNGERさんも、もっと上の世代もいるとはいえ、日本のヒップホップの歴史のなかでは比較的早い時代のラッパーですよね。
日本語でライムやフロウを作り上げてゆくために、どのようなアプローチをしたのでしょうか?

ダースレイダー 僕の場合はちょっと特殊で、英語が分かるので、ライミングの構造を英語として理解していました。日本語の難しさも分かっていて、例えば日本語でラップをしても、ニューヨークのラップを聴いているときと同じものとして聴こえない。
「NasとかOCがやっていることと自分がやっていることは同じジャンルじゃないのかな?」っていう葛藤はみんなが抱えていたと思っていて、発音を英語寄りにしたり、英語をたくさん使って「聴こえ」をアメリカのラップに近づけてゆくというスタイルと、「いや、ヒップホップは言葉で伝えてゆくものだから、日本語でちゃんと作ろう」という方向性とに分かれていったのが、ちょうど自分たちの世代だった。これは多分いまだに論争になる。

HUNGER 僕もダースもけっこう異端というか、僕は完全に人がやらないことをやろうと思っていたから、日本のラップを一通り聴いて「どういうキャラクターがいないのか、どういうリズムパターンでラップすれば新しいのか」っていうのをとにかく考えた。
その頃はリリース契約がないしSNSもないので、僕のライブを見た人に、一回でちゃんと(印象を)持ち帰ってもらわないといけない。だから滑舌を磨いて、どんなに早口でも一発で言っている意味がわかるようにライブしてたんです。そうすれば伝わるし、お客さんの表情が変わる。ビートはできるだけシンプルなものを選んで、きちんとラップが立つようにするというのを日常的にやっていた。たぶんそれがオリジナリティを作る源泉になったのかな、と思います。
英語のラップのコピーから始めてオディア語ラップのパイオニアとなったBig Deal、本場のライムの構造を理解することができたがゆえに日本語ラップの難しさを直感していたダースレイダー、そして日本語ラップでいかに言葉を伝えるかという点を追求したHUNGER。彼らの言葉からは、それぞれが母語とラップをどう接合しようとしたのかという苦心が見て取れる。
今も英語とオディア語の2つの言語で楽曲をリリースしているBig Dealは、どのようにラップする言語を選択しているのだろうか。

軽刈田 (Big Dealに)英語でラップをしている曲と、オディア語でラップをしている曲がありますが、どうやって言語を使い分けていますか?

Big Deal 最初はフィーリングで決めていた。でも今ではもっと戦略的に考えることもある。なぜなら今の自分には十分なキャリアがあって、たくさんの人が私の音楽にお金を払ってくれているから。オディア語は自分の母語だし、オディア語でラップするのはとても意味があることだよ。
今では、戦略的に考えて60〜70%をオディア語で、30%ほどを英語でラップすると決めている。英語では、より議論を呼ぶような曲をリリースするようにしているんだけど、なぜかというと、インドでは英語でリリースした曲はほとんど誰にも聴かれないから。よっぽど独創的なことをしないかぎり、誰も英語の曲には注目しない。英語で曲を作っても、たとえそれがいい曲だとしても、なにかステータスがないと注目されないんだ。例えば英語でEminemみたいな曲を作ったとしても、みんな「Eminemを聴けばいいのに、どうしてお前の曲を聴く必要があるんだ」と思ってしまう。だから英語で曲を書く時は、議論を巻き起こすような、人々がこれまで話してこなかったようなテーマの、みんなに衝撃を与えるような曲を書くようにしているんだ。ソングライターとして、こんなふうに考えている。

軽刈田 一方で、オディア語の曲では、いつもオディアの(オディシャ州の)文化や人々をレペゼンしていますね。オディア語でラップするときは、オディシャの人々に向けてラップしているということですか。

Big Deal そう。僕はオディアの文化や、起きていること、人々に関わりがあることをレペゼンしている。オディア語でラップするときは、お祝いのような、より楽しい雰囲気にしていて、英語でラップするときは、議論を呼ぶようなものにしている。英語で曲を発表することは、音楽業界の中で自分の存在を示すためにも必要なことだ。
僕は大好きなラッパーのJoyner Lucasにとても影響を受けている。議論を呼ぶような曲を書き、戦略的に考えて、音楽業界の既存のやり方を打ち壊す彼のやり方が、とても気に入っているよ。今はものすごくたくさんのラッパーがいて、たくさんの言語があって、あまりにも多くのことが起きているから、どうやってその中で成功するか、賢く考える必要がある。成功するのが難しい業界になってきているね。

軽刈田 オディアの人々をレペゼンするのと同時に、(インドのマジョリティとは異なるモンゴロイド系の人々が多く暮らす)インド北東部の人々についての曲もたくさん書いていますよね。 その理由について教えてください。

Big Deal 大きな理由は、僕がインドで「北東部出身者」として暮らしてきたから。人種による差別を受けてきたっていうだけでなく、僕は生活のすべてにおいて北東部出身者として生きてきた。実際は北東部出身じゃないけど、母が日本人で、僕はこういう見た目だからね。人々が君と会った時に、君はどんな機会が得られるか。その多くは見た目に左右される。不幸なことに、インドでは僕のような見た目だと不利なことがたくさんある。
多くの人は認めたがらないけど、事実として不利益があるんだ。例えばメインストリームのメディアやポピュラーカルチャーを見ても、僕たちのような見た目の人はほとんどいない。このことは自分の中でとても大きな部分を占めている。だから僕は北東部の人々に、「彼は私たちみたいな顔の有名人だね」と言われるような存在になりたいと思っているんだ。自分に似た容貌を持つ、北東部の人々をレペゼンしたい。今も(インドでは北東部出身者への)人種差別やいじめが頻発しているから、そうしたテーマの曲をたくさん書いている。
僕は北東部出身ではないけど、インド北東部にはたくさんのファンがいる。僕は彼らの一人というわけじゃないから、これは予期していなかったことだった。僕は北東部の文化が大好きだし、食べ物や暮らしやファッションや気候など、北東部は日本にも似ている。僕は日本人とのハーフだけど、北東部との繋がりを感じているんだ。

インド北東部をレベゼンする

この “Are You Indian”はアメリカの黒人差別をテーマにしたJoyner Lucasの“I’m Not Racist”を、インドの北東部出身者差別へと翻案した曲だ。ミュージックビデオで差別主義者のマジョリティが語っているように見える部分も、実際は全てBig Dealがラップし、演じ分けている。
見た目や生活規範や食文化の違いから来る偏見と、それに対する反論、そして相互理解への希望。この曲からは、アフリカ系アメリカ人が生み出したヒップホップが、遠く離れたインドでもマイノリティたちのプロテストとして意味を持っていることがよく分かる。

軽刈田 インド北東部では、アルナーチャル・プラデーシュ州のK4 KekhoやシッキムのUNBが『I am an Indian』や『Call Me Indian』で同じようなメッセージを発信していますよね。アフリカ系アメリカ人のカウンターカルチャーとして生まれたヒップホップは、世界中に広まって、それぞれの文化に翻訳され、ローカライズされて、マイノリティの声を届ける手段となっていますね。

Big Deal ヒップホップはこれまでずっとマイノリティや抑圧された人々の声であり続けてきたと思う。ヒップホップは過酷な身分差別や人種差別の中から生まれた。アフリカ系アメリカ人たちによって生み出されてから、長い旅路を経て、インドの小さな地域にまで届いたと考えると、本当にすばらしいと思えるよ。今ではインドのどんな小さな街にもラッパーがいる。ヒップホップでは、誰でも、どんなキッズでもラッパーになるのを夢見ることができる。だからこそ、ヒップホップはとても人気なんだ。
僕もラッパーになることができた。僕はすばらしい声の持ち主ではないし、ただ自分の経験を歌詞にしているだけだ。これこそが、ヒップホップが人気ジャンルである理由だよ。
自分の所属するコミュニティを「レペゼンする」という行為は、ヒップホップという文化が持つ大きな特徴のひとつだが、Big Dealはオディアであるという自分のルーツだけでなく、自身に似た容貌を持ち、そして差別に晒されている北東部出身者の痛みをも分かち合い、彼らを代理してプロテストを表明し、支持を得ている。インドならではの、そして彼ならではのヒップホップの実践と言えるだろう。

三人にとってのヒップホップとは?

軽刈田 ヒップホップはひとつの発明と言えますよね。例えばロックミュージシャンになろうとしたら、楽器を買ったり、スタジオで練習したりする必要がありますが… 。

Big Deal そう。ヒップホップなら何も必要じゃない。ペンと紙があればラッパーになれるから。

軽刈田 あなたのリリックについて教えてください。
リリックのテーマはあなたがラップを始めた頃と比べて変わっていますか?

Big Deal 確かに変わっていると思う。僕自身がその頃から変わっているし、さまざまなことを学んで、新しい経験をしているから。僕の人生や経験が僕の音楽を形作っているんだ。でも僕の本質的な部分やルーツは変わらない。僕が自分自身をレペゼンしているということは変わらないんだ。母が日本人で、オディアで、プリーで生まれ育って、こういう見た目で差別を経験して、マイノリティであり続けるっていうことは変わらない。自分のアイデンティティをしっかりと保ったうえで、他の場所に行って、さまざまな経験をしたいと思っているよ。

軽刈田 ヒップホップは男性的な文化だと考えられてきました。80年代や90年代のアメリカでは、いかに自分がギャングスタでワルなのかというラップが流行っていましたよね。今では変わってきていますが。
一方で、ヒップホップはとても正直な音楽でもあって、例えば、あなたは自分の本名をタイトルにした『Samir Rishu Mohanty』では、パニック発作に襲われた時のことをラップしています。私もかつて同じ経験をしたことがあるので、こういうメッセージは、同じ問題に苦しんでいる人にとって、とても意味があると思います。
ヒップホップには「男性的」「パーティー好き」といったステレオタイプなイメージと、それとは相反する、自分の弱さをさらけ出せる、より素直で誠実な側面がありますよね。こうしたヒップホップの二面性について、どう考えていますか?

Big Deal 僕はEminemの『8Mile』でヒップホップに出会ったけど、この映画を見ると、最後のラップバトルでEminemは彼の弱さを全てさらけ出しているよね。彼は、自分がどんな人間なのか、弱さを含めて全てさらけ出したうえで、「さあ、これでお前は何が言える?」と言う。10代だった僕はとても衝撃を受けた。「ワオ、なんて強いんだ」って。
それで自分自身についても考えてみた。もし自分が何か言われても「そうだよ」と認めてしまえばいいんだ、と。 J Cole, Kanye West, Drakeみたいなラッパーはギャングスタラッパーではないけど、彼らの音楽はとても誠実で力強いよね。
自分がパニック発作についてラップしたら、同じことを経験していることを救うことができるかもしれない。以前自殺についてラップした曲を発表した時に、ミュージックビデオを見た人から、「ビデオを見て泣いてしまった。本当にありがとう。あたなは私の人生を救った」というメッセージが送られてきたことがあって、とても驚いた。
僕たちにはミュージシャンとして、真実を伝える責任があると思う。言葉はとてもセンシティブだから、真実を表現することで、攻撃されたり排斥されたりする可能性もあるけど、僕は恐れてはいない。もし僕をキャンセルしたいなら、別に構わない。それでも僕は真実をラップしたい。誠実に真実を伝えるべきだと信じているんだ。誠実な音楽はファンたちをずっと繋ぎ止めることができる。Eminemは1999年からやっているけど、今でも人気があるよね。それは誠実な音楽だからだと思う。

軽刈田 ダースさんも、ご自身の病気(脳梗塞や、その合併症にともなう左目の失明、40歳のときに受けた5年の余命宣告など)のことをラップされていますよね。
ヒップホップの「マッチョさ」と「弱さを含めて正直にさらけ出す部分」について、どう考えていますか?

ダースレイダー 最初にラップを始めたときは、単に「言葉遊び」でしかなくて、何にも考えてなかった。「ラップするのが気持ちいい」くらいの感覚で、メッセージも何もなくて、ただ韻を踏んで、こういう漫画を読んだとか、こういう映画を見たっていうことをラップするだけで楽しかった。
だけど、病気で倒れてからは、「ヒップホップの考え方を使えば病気というマイナスのイメージを逆転させることができる」っていう……つまり、世の中で悪いことだと思われていることを、全部かっこいいラップにしちゃえば、みんなが羨ましがるような良いものに逆転できるじゃん、っていう考え方になって、そういう態度で歌うようになった。
だからラッパーデビューは19歳だけど、ヒップホップラッパーとしてのデビューは33歳、みたいな感じはあります(笑)。

ダースレイダーがたびたび言及しているように、ヒップホップでは、ill(病んでいる)やdope(麻薬)という本来ネガティブな意味を持つ言葉を、「カッコいい」というポジティブな意味(日本語で言うと「ヤバい」が近いだろうか)へと反転する。
黒人への差別用語であり第一級の放送禁止用語である「Nワード」さえも、アフリカ系アメリカ人のラッパーたちは仲間たちへの呼びかけとして使う。
ヒップホップという文化は、人種的なマイノリティ性や、差別され、抑圧され続けてきた過酷な現状を、アイデンティティや連帯感、そして「かっこよさ」へと転換する画期的な発明でもあった。
前述したように、Big Dealは“One Kid”や“Are You Indian”で、自身が暮らす社会で経験した差別や偏見をテーマにしている。彼のこうした取り組みは、アメリカ生まれのヒップホップをインド社会にローカライズして実践したものだ。
一方で、ダースレイダーの「病気」というより個人的な痛みや苦しみをヒップホップによって昇華するという方法論は、ヒップホップが持つ「逆転の美学」を、より個人的な立場から実践したものだとも考えられる。
アフリカ系アメリカ人たちのローカル文化だったヒップホップは、世界中に広まり、それぞれの土地で受容されてゆくなかで、ふたたびローカライズされ、またパーソナライズされていった。ヒップホップがここまでグローバル化した理由としては、ダンスミュージックとしての魅力や、ファッションの要素も大きいだろう。だが、単なるスタイルの模倣を超えて、ヒップホップが世界中で熱心なファンや表現者を産み続けている最大の理由は、この文化が社会や個人の痛みを共有し、ネガティブをポジティブへと転化する力を持っているということなのではないだろうか。

ヒップホップと地域性

ここでまたヒップホップの別の側面に注目してみたい。
ヒップホップには「都市文化」のイメージがある。いくらヒップホップがグローバル化、普遍化したといっても、大都市以外でのラッパーの成功をイメージするのは難しい。
インドや日本において、地域性は、どのようにラッパーとしてのキャリアに影響を与えるのだろうか。田舎町プリー出身のBig Dealと、仙台を拠点に活動を続けるHUNGERに聞いてみた。

軽刈田 (Big Dealに)最近バンガロールからムンバイに引っ越したと聞きました。
その前はダージリン、プリーに住んでいたわけですが、プリーやダージリンでラッパーとしてのキャリアを続けるのは難しかったのでしょうか?

Big Deal 不可能だよ(笑)。なぜなら、音楽産業はムンバイにあるから。バンガロールにさえ、あまり音楽産業は存在していないんだ。日本でいうと、大阪ではなく東京に産業が集中しているようにね。
インドの音楽産業はそこまで大きいわけじゃないから、ムンバイがいちばん存在感があって、デリーにも少しあるけど、そんなに大きくはない。 デリーがL.A.なら、ムンバイがニューヨークみたいな感じと言えるかな。東京と大阪みたいな、そんな感じだよ。
ムンバイにはあらゆる企業の本社があって、レーベルもあって、ストリーミングプラットフォームの本拠地とか、ブランドとか、いろいろなものがある。
僕はムンバイで、最高のマネジメント会社であるCollective Artists Networkと契約することができた。創設者が僕のキャリアに関心を持ってくれて、ムンバイに来るべきだと言ってくれたんだ。ムンバイにいるのはとても大切なことで、実際に人々に会えるということは、遠く離れた場所から電話で話したりするのとは違うからね。
より強い絆を築くことができるのというのが、とても重要なことなんだ。

軽刈田 オディシャ州の言語であるオディア語でラップをするとしても、(約1,500キロも離れた)ムンバイのほうが良いのでしょうか?

Big Deal 確実にそうだと言える。なぜなら、地方の音楽こそが未来だからだ。少なくともインドではそう言えるよ。
大手のマネジメント会社がヒンディー語じゃなくてオディア語でラップしている僕と契約したのは、彼らがその明白な事実を知っているからだ。地方の音楽こそ未来だというのは、ヒンディー語や英語の音楽はもちろんこれからも存在し続けるけど、その割合は減ってゆくという意味だよ。オディア語やベンガル語や、南インドのカンナダ語のような、地方の音楽が成長しているからね。それぞれの州にトップのアーティストがいて、僕はオディシャ州ではすでにナンバーワンになっている。これからさらにビッグになるだろうと言われているよ。
ムンバイで他のもっとビッグな国民的なアーティストとコラボレーションする計画もあって、そうすることで僕は別のドアを開くこともできる。

軽刈田 HUNGERさんは仙台を拠点として活動されていますが、地元だからこそできることと、東京みたいな、その国でいちばん大きな都市でないとできないことがあると思います。
地方を拠点に活動するメリットがあるのと同時に、たとえば地方ではチャンスが少ないといったような、マイナスの部分もありますよね。

HUNGER みなさんが想像する通りで(笑)、チャンスは少ないし、一つのジャンルにおいて切磋琢磨している人の数が圧倒的に少ないから、圧倒的な好きと強い憧れがないと(地方で続けるのは)難しい。でもそれを超えたところにある面白さというのが、ここ何年かで分かってきた。 地方でキャリアを積むことで、音楽に関わる人以外も含めて、戦友感が生まれます。
この街全体をどう盛り上げていったらいいのか。ただ「盛り上げるぞ」って言うだけじゃなくて、この土地で自分は何ができるのか。この土地で持てる選択肢とか、みんなが諦めないで続けるためにはどうしたらいいのかとか、そういうことをちゃんと考え、伝えられるようになってきた。
そういう意味で、音楽シーンや街の課題に取り組むというのも自分にとっての大事な活動になってきていて……、楽しいです、これは。

ヒップホップの将来、日本とインド

仙台という拠点で地元を盛り上げるために活動を続けるHUNGER。地域間の格差が大きく、最大都市ムンバイから地元を活気づけようとしているBig Deal。活動形態は違っても、自分のコミュニティを基盤として、そこから発信を続けようとしている彼らのスタンスに変わりはない。
最後に、彼らにインドと日本のヒップホップシーンの現状、そして今後について聞いてみた。

軽刈田 (Big Dealに)現在のインドのヒップホップシーンについて教えてください。

Big Deal データによると、2年前からヒップホップはボリウッドよりビッグになっている。全てのストリーミングプラットフォームやYouTubeで、ヒップホップはボリウッドよりも聴かれているんだ。一般の人はほとんどこのことを知らないけど、事実としてヒップホップはボリウッドよりも大きくなっている。これはとても大きな成果だ。ボリウッドの音楽には相当なお金がかかっていて、映画を宣伝するために何千万ルピーというお金が使われる。ミュージックビデオを撮るためだけに、ボリウッドスターやさまざまな人やモノを準備したりもする。 その一方で、スラムやガリー(Gullyは「路地」を意味するヒンディー語の単語で、インドのヒップホップでは「ストリート」の意味で使われる)出身のチープな服装のラッパーが、真実を語ってボリウッドよりも多い再生回数を稼いでいるんだ。ヒップホップにどれだけの力があるか、わかるよね。
スターなんて必要ない。ただ正しいことを伝えていれば、どこにいても、どんな格好をしていてもいいし、高いお金がかかる映像もスタジオも必要ない。人々は真実を語っている音楽を好むんだ。だからこそヒップホップはボリウッドよりも大きくなった。誰もヒップホップがこんなに早くボリウッドよりも巨大になるとは思っていなかったよ。
ボリウッドでは映画が商品だから、音楽は映画のために作られる。映画を見てもらうための音楽なんだ。YouTubeのトレンドになるために、巨額のお金が使われている。マーケティングにもお金が使われる。これはとてもクレイジーなことだよ。でも、人々は賢いので、それがただの商売だと知っているんだよ。

軽刈田 日本のヒップホップシーンは、今後どのようになってゆくと考えていますか?

HUNGER 同時進行で言語のバリアが解ける時代が、たぶん来るだろうと。
その時にみんなの考え方や感じ方が変わって、日本のヒップホップの大きな転機になるのは間違いないと思う。

軽刈田 つまり、いろいろな国や言語のヒップホップが聴かれるようになるということでしょうか?

HUNGER そう。
今もうすでに相当面白い状況になっていて、いずれ、100年後かもしれないけど……でもそんなにかからなさそうだよね。

ダースレイダー もっと早くそうなるんじゃない?

HUNGER その境目の面白さみたいものがある。

ダースレイダー 日本語の壁みたいなことはよく言われていて、日本語のオリジナルのヒップホップができる反面、日本語でユニバーサルな繋がりを作るのは難しい。これは日本全体が今後どうなってゆくのかということとも、じつは関係していると思う。
実はヒップホップ以降、日本語と英語がうまく混合したジャングリッシュみたいなものが生まれるかな?とも期待したんだけど、スラングは日常会話で使われるようにならないといけないから、まだまだかな。もっとも人口減から移民が多く入ってくることがいちばんユニバーサルに開かれる言語の可能性としてはあるとも思う。
インドでは英語という共通言語があって、地元の言葉と英語が使えるというのは、ヒップホップ的には強い。
日本の場合は世界につながる窓口がすごく少ないから、今は国内で間に合ってはいるんだけど、一方で、もったいない部分もある。インド系の人は世界中のいろいろなところにいて、インドのヒップホップはそれぞれの国のシーンとも繋がってゆくと思うんだけど、日本の場合、世界中の日本人コミュニティだけじゃなくエイジアンコミュニティとも繋がっていかないと、本来持っているポテンシャルを活かしきれてないんじゃないかなと感じる。

軽刈田 今日はありがとうございました。
最後に、Big Dealのおすすめのインドのラッパーを何人か教えてください。

Big Deal お気に入りはKR$NA。彼はたしか2010年くらいから活動していて、大好きなラッパーなんだ。彼の音楽は素晴らしいよ。
DIVINEも好きだよ。インドには優れたラッパーがたくさんいて、とてもクオリティが高いんだ。Raftaarも最高だね。他にもたくさんいるけど、何人か挙げるならそんな感じかな。北東部出身のGnieもすばらしいラッパーだよ。


この3人でレコーディングされた曲は、2024年6月26日に出版が予定されている『辺境のラッパーたち――立ち上がる「声の民族誌」』の特典としてダウンロードして聴くことができる。
The Bassonsのビートに乗せた史上初の日本語・英語・オディア語ラップの共演と、Big Deal、ダースレイダー、HUNGERの三者三様のフロウをぜひお楽しみいただきたい。